人にはそれぞれ事情がある

uizcatchthebeat2009-06-17



マーシーのことではなしに。


清志郎の「最新シングル」を
買ってきた。
ポストカード3枚付き。
青山でも聞く機会はあったが
こうしてCDでフルで聞くと
感触は違う。
全部の楽器を自分で演奏したテイクだが
予想してた"RADIO SOUL 20"用のデモ蔵出し、
という印象を超えた、
きちんとリリースすべき、完成した曲、だった。
Data Conversion&Restorationとしてクレジットされている
高野寛と葛西敏彦が渾身の仕事をしたのだろう。
Co-Directorにはたっぺいくんの名前も。


正直、RADIO SOUL 20のversionを先に聞いたときは
「キャンペーンソング」然としてる、
ノベルティ感があって
最後の一節「愛と平和の歌を」も
いつもの決まり文句な感じにしか思えなかった。
この手の曲の中では悪くない、
清志郎が曲を書ける状態で良かった、くらいの。
今はこのversionへの感慨も違ってしまうのだけど。


今、このオリジナルを聞くのは
いろんな思いが去来して
客観的に判断することはとても難しいけれど
無駄な装飾が一切無い、
極上のロッカバラードや
至極のブルースや
美しいR&Bに
共通した情感で一杯だと思う。
最後の一節が
これだけ重要に響くものだとは。


カップリングは"激しい雨"を
コーちゃんとチャボを入れて
録り直したセッションでラフな仕上がりだが
この曲の内容、位置づけを考えると
このテイクを世に出してくれたスタッフに
感謝したい。




さて。
似たような苦悶を感じてる人も多いはずだが
清志郎39年間のキャリアを
ずっと同じテンションで支持し続けた、
というファンが世の中にはいるのだ。
デビューから
今回のこのシングルまで、リリース作を発売日に買い、
ライブには皆勤並みに駆けつける、
そんなファンもいるはずだ。


その他にRCのブレイク期、
80年代前半だけ熱心で
その後は離れたファンも少なくない。
30代のHip Hopアーティストたちは
TIMERS(ゼリーだけどさw)からの影響を語るものが多い。
レジェンドとしてフェスに登場する姿や
自分の好きなアーティストが敬愛する存在として
新たにファンになった20代も多いと聞く。


ブレイク前の深刻な低迷期(シングルマン時代)、
それでも"わかってもらえるさ"と歌う姿は
その後の成功を知っているだけに
今聞いても感動的だし
タイムマシンにでも乗って
「そう、もうすぐだ!」と教えてあげたいくらい。



いっぽう、成功と尊敬は勝ち得たのち、
売り上げや集客力といった意味では
小規模になっていた2000年前後に歌われる
"誰も知らない"は胸が痛い。



俺は前も書いたように
センパイの世代から"Rhapsody"を教わって
ラジオで聞いた"ステップ"が大好きになり
そのおかげで82年の夏に横浜スタジアムで初めて
「黒人アーティストのライブ(Chuck BerryとSam Moore)」を見ることが出来た。
そこから92年のMG'SとのツアーまではRCとソロのライブは
見られる限り行っていたが
以降は機会があれば行く、というスタンスに変わり
リリース作も全てをフォローすることが無くなっていた。
Hip HopやR&B、Reggaeのほうにのめりこんでいったことも大きい。
日本語ラップ」の胎動も聞こえていた。
そんな嗜好の変遷の中、
つまり清志郎の歌やライブに熱狂したのは
その全キャリアのたった4分の1でしかない。


そんな俺が清志郎を語ることは許されるのだろうか、
"誰も知らない"と歌っていたことさえ
リアルタイムで知らなかった、知ろうとしなかった。


一時期に比べてクオリティの低い、
もしくは著しくマンネリだったりするものしか産めないアーティストを
義理だけで支持する義務はないだろう。
しかし、今回のことで俺の中の「空白」だった作品群を
買い求めていくにつれ
素晴らしい作品がたくさんあるのに気付く。
もちろん一音楽ファンとしては
いつどのように音楽を愛でるのも勝手だけれど
清志郎は無視していて良い存在ではけして無かった。
その後悔は大きい。


三沢の件も確かにショックだった。
でも、新日びいきだった俺が
最後に三沢を見たのは02年の交流戦(vs蝶野)だし
NOAHの単独興行には結果的に一度も行っていない。
そんな者が語る資格もないし
自分の憐憫の情を晒すのも醜い。


「好き」という気持ちはどう測ればよいのだろう。
追悼の表現はどう表せば良いのだろう。
それは他人とは比較出来ないのだろう。
それでも、人さまざま、と分かりながらも
「オマエ、そんなに好きじゃないだろう!」とイライラするようなこともある。
歌って偲ぶ、というのがしっくりこない
(本人以上に歌えるはず無い、から)
から、「追悼ライブ」の類もあまり気乗りしない。


青山に行くのも当初迷った。
でもあのときにフラフラになりながら
並び続けた気持ちに嘘は無いし
献花のタイミングで"トランジスタラジオ"が流れたときには
とてもクールではいられなかった。
あれは俺なりの感謝だったのか
懺悔だったのか
自分を納得させる行為だったのか。
たぶん、全部だったのだろう。




青山の件が発表されてから
行くべきかどうかぐじぐじと迷い続けていた。
5月8日、あの鮮やかな虹を見たことで
何故だか決心がついた。
何かを過剰に意味づけるのは好みじゃないが
あの日はもう、そうとしか思えなかった。





「あの頃がまんま蘇るナンバー」
懐古が単なる懐古で無く、
今、そして未来へとダイレクトに繋がってる。
正直、こんなに全てをお見通し、な
人生のセンパイがいなくなって
いまだにどうしていいか良くわからないのだけれど
もう青山で遺影にも約束を交わしてしまったし、
全ての歌を担いで、
前へ。
ただただ、前へ。


Oh! RADIO

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