そもそも

uizcatchthebeat2007-08-06

2ヶ月ほど前にPCが逝って
からとゆーもの、
まともに更新出来なくなって
どうやって復活しようか
悩んだ末に
何も無かったように
ヘーズラこいて
また書いてるけども。
そーゆー環境の問題とは別に
丁度「大日本人」をめぐって
議論が沸騰してた頃に
思うところあってちょっと文章とか
書きたくなくなってたのも事実。
いろんな表現でその都度書いてきたことですが
「批評」てのはホントに難しい、とゆー。
またもや酔いながら(残波ウマー)
書いてて集中力が続かないので
あんとき書こうとしてたことを掘り起こしてメモ。
まあ、チラ裏レベル。


・そもそも我々は全くオリジナルの言葉なんて持ってない。
・「映画」でも「音楽」でも、各自前提(定義として、体験として)が同じでない。
曰く、映画として成り立ってる、Hip Hopとして正しい、云々は
私的解釈以上のものではない。
・故に、唯一絶対の評価軸などあるはずがないと共に、評価の優劣も在り得ない。
あるとすれば批評表現自体を世に問うたとき
それが他者の耳目を引く魅力的な内容を持つか否かくらいか。
・大方の批評なるものは、所詮好きか嫌いか、自分の感性に合うか合わないか、
という話であって
如何にもっともらしい理屈(説得的と言うべきか)で装うことを競っている。
・断言してる文章はたいてい胡散臭い(含む俺)。
・作り手と受け手が50/50か、どうかは疑わしい。
消費物として世に問うたからには値段分の批判は受けなきゃならん、とも思うが
モノを作って生み出すことの出来ない人間があまりに高飛車なのもどうか。
硬式球も握ったことの無い人間がプロ野球を熱く語るのは滑稽ぢゃないのか。
俺も格闘技好きでしょっぱい試合をボロクソ言うが
自身はその選手のジムの練習生にすら秒殺されるであろうwとゆー矛盾と
どう付き合っていくのか。
・批評の際に、比較対象を使うのはあまり品が良くない気がする。
・なぜそうした評価に至ったか、に関して自己言及してる文章には誠意を感じる。
たとえば、今月のサイゾー岡田斗司夫氏は、
自分が松本信者でないことを断った上で、
「私の『大日本人』はとてつもなく面白いという評価は、
あの作品の「革新的なチャレンジ」を評価するところが大きい。
むかし私自身も同じ実験にチャレンジし、
中途半端な成功を収めた経緯があるからだ」と続けてて、
俺にとって「読む価値があった」「読んでオモロかった」批評だった。
同意するかどうかは別にして、
「顔の見える」「腹を割った」文章を俺は求めるのだと思う。


まあねえ、
今こんなんメモったからっつって
一眠りして酔いが覚めちゃえば
今後固いことしか書かないとか
独善的な批評はしないとかは見事に一切無いんだがwww


さっきまでボーっとTV見流して脳に浮かんだことといえば
「なぜ朝青龍播磨灘になれないのか」とか
織田信成は敢えて今うつけを演じてる」とか
大体俺の現実認識とか想像力なんてそんなレベル。
まあ自戒を込めて、ですよ。